旧苅田家住宅は城東重要伝統的建造物群保存地区の西部に位置する大規模な町家であり、代々「諸白(もろはく)」の商号で知られる造酒業を営んでいました。
家伝によると、苅田家は、元和8年(1622)に津山に移住し、宝暦8年(1758)に六代、治七郎が現在の地で酒造業を始めたとされ、城東地区では有力な商家の一つです。

旧苅田家住宅 全体図(下が北)
旧苅田家住宅は出雲街道の南側に位置しています。ほとんどの商家は間口が4間半以下であるのに対し、旧苅田家住宅は、間口が14 間半もあり、この地区にある最大規模の町家です。
建築年代を示す資料として、家相図(※注)が複数枚残されており、これにより建物の変遷がわかります。そのほか、土地売買証文、蔵の棟札などがあり、さらに建築的特徴から、建物の新築・改修の変遷を追うことができます。
家相図をみると、主屋の裏側に三階蔵、米蔵、大蔵などの建物群があり、現在の建物は家相図の建物配置をほぼ踏襲していることがわかります。
また、家相図を年代順に追ってみると、前蔵・西蔵の北側部分が短く縮められており、その分庭が広くなっていることや、独立していた土蔵群が一体化している様子がわかります。

弘化4年(1847)の家相図
まだ前蔵、西蔵が、図の左側にある三階蔵よりも前(図の下側)に出っ張っています。
また、前蔵、西蔵、大蔵、裏門がそれぞれ独立しています。

明治23年(1890)の家相図
前蔵の北側が短く縮められており、庭が広くなっています。また、独立していた裏門が大蔵と一体化しています。

明治33年(1900)の家相図
前蔵と西蔵がともに縮められています。また、西蔵の西側に新たに建物が付け足されています。また、大蔵と前蔵、西蔵との間の溝が描かれていないことから、明治22年から明治33年の間に一体となったと考えられます。また、明治23年の図にはなかった「新蔵」の建物がみられます。
大蔵もかなり増築・改修がほどこされており、中に置かれている酒造用タンクの数からしても当時の繁栄ぶりが想像されます。
南には商家ではめずらしい長屋門の形式の裏門があり、敷地の拡張に伴い武家地が一部取り込まれているものと考えられています。
主屋と土蔵群の間にある庭は、鶴亀石や富士山を表現した石が配されています。築庭された年代は不明ですが、江戸から明治の作と推測されます。このような庭は本地区では旧梶村家住宅(国登録有形文化財・登録記念物)ぐらいにしかなく、非常に貴重なものです。
今回は家相図についてみていきましたが、ほかにも、旧苅田家住宅にまつわる資料は数多くあります。これらの資料は修理工事のために必要な調査・検討に役立てられます。
今後のコラムでは、その他の資料についても随時、紹介していきたいと思います。
※家相図…土地や家の間取りと方角を組み合わせて、その家の吉凶を判断するために描かれた図。古くから家を建てる際の重要な指針として使われてきた。