津山城の東側、出雲街道に面した東西約1.2kmの範囲が「城東重要伝統的建造物群保存地区」です。このエリアには出雲街道に直角に交わる13の小さな道(小路)があります。

 今回はこの小路のうち一番東側の「瓦屋小路」の名前にまつわる物語を紹介します。

 明治時代の郷土史研究者である矢吹正則はこの小路の由来について「森氏の瓦師、その近辺に居住し、この名がある」と記しています。皆さんお察しのとおり、付近に瓦師が住んでいたため、この名前が付けられたようです。

 では、その瓦師はどのような人物だったのでしょうか?

 昭和時代に、津山科学教育博物館(現つやま自然のふしぎ館)館長であった森本謙三と津山朝日新聞社の記者であった小谷善守によって、その瓦師の名前が「赤染部(あこべ)九郎右衛門」であることが判明しました。この赤染部の瓦製作場と屋敷は瓦屋小路を北へいった上之町の旧東中学校跡地あたりから東側にあったようです。

 この辺りは良質な粘土が取れ、瓦の製作には都合の良い場所だと言われています。この場所からもう少し東の総社川崎線(国道53号線から沼方面へ抜ける道路)の建設に先立つ遺跡の調査で、粘土を採掘した大きな穴がたくさん見つかっており、赤染部屋敷・製作場の周辺で粘土が採掘されたことが分かっています。

 赤染部九郎右衛門は1603年に初代津山藩主森忠政が美作に入った時に、美濃から津山へ移住したといいます。津山城築城時に瓦の製作を任せられたようで、その功績により祝儀金10両、30人扶持と瓦工場5畝をいただいたと伝えられています。

 赤染部の家に伝えられている文書によると、九郎右衛門から4代目の理兵衛は松平初代藩主宣富から呼び出され、引き続いて城の御用瓦師を命じられています。

 「瓦屋小路」という名前から、何となくこのあたりに瓦屋がいたのかな?という想像はつくかと思いますが、その瓦屋を深く探ると森・松平両家に代々仕えた瓦師の拠点があったことを知る人は少ないかと思います。