津山城天守の知られざる内部
津山城の天守は、五階建てで、高さはおよそ22メートルで、当時としては大きな天守でした。
その下には、6メートルの石造りの基礎がありました。
各階をそのまま積み重ね、上に行くほど、ひとまわりずつ小さくなる「層塔型天守」と呼ばれる造りです。
天守は、城の中央ではなく、本丸の西の端に置かれていました。
いざというとき、天守を最後の砦にするためです。
そのため、天守には簡単に近づけないよう、動線にもはっきりとした工夫があります。
南側では通路を折れ曲がらせ、北側では階段を外して、上への道を断つことができました。
さらに、備中櫓の西側には、天守を守るための太鼓様式の塀が築かれていました。
二枚の塀のあいだに、小石や瓦の破片を詰め、銃弾の衝撃を中で吸収する仕組みです。
17世紀初頭、少ない労力で高い防御力を得るために考え出された工夫です。
天守への入口は、石造りの基礎部分にありました。この地下階は、天守を支えると同時に、敵の侵入を最初に食い止める防衛の空間でもありました。
守りは、石造りの基礎の内部から始まっていました。
一階と二階は、人が中で過ごすことを想定した階でした。
その途中に中二階を設け、その下に、便所と湯殿、入浴の前後に身支度を整える場所がありました。
日本の天守の中でも、これらすべてを備える城は多くありません。
城主とその側近が、天守に長く立てこもることを想定していたのです。
天守の外壁には、101の鉄砲狭間と、59の矢狭間がありました。
その位置は、当時の記録から分かっています。
今回は、その記録をもとに再現しています。
最上階に上がると、それまでとは建物の性格が変わります。
中央には、城主が公式に座るための一段高い畳の部屋があります。
天守の中で、もっとも格式の高い場所でした。
ここは、守るための階ではなく、城の主としての空間です。
この最上階には、かつて一つの鐘が吊られていました。
西洋の影響を受けた形の鐘で、津山城の完成にあたり、小倉藩主・細川忠興が、津山藩主・森忠政に贈ったものでした。
鐘は、1874年の解体まで、天守に吊るされていました。
そして、バルコニーへ出ると、視界が一気に開けます。
津山城の天守では、最上階だけが周囲を広く見渡せる造りでした。
城主はここから、城と城下町の様子を見渡していたのでしょう。
天守は、戦いのための建物であると同時に、領地を治める立場を示す場所でもありました。